科学という名の風景に写らないモノ

http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081208/p1
このエントリを見ていたら前から考えていた科学観にヒットする部分があったのでその辺を書いてみる。
基本的には

科学の成果というのは、万能には程遠い人間がもがいた末にたどり着いた「いまのところこれ以上確かな事は言えないな」といったもの。

これが正にその通りだと思うのだけれど、それは例えるなら人間が世界の理を切りとった風景写真であり、科学とはそれを写す定点設置のカメラのようなものであると思う。
で、カメラももちろん日々進歩していくわけで、画素数が上がったり広角レンズがついたりするたびに写真は今まで写せなかった部分が写せるようになっていく。そして今まで写せなかった部分が写った新しい写真を見ることで、今まで見てきた写真に写っているものが別の意味を持っていることに気づくことがある。端的な例だが量子力学をやってから古典力学に立ち戻った時の感慨ってのはそういうニュアンスだと思っている。
さて、そこで問題になってくるのがニセ科学ニセ科学がこの場合何かといえば被写体の誤認である。鹿を指して馬と為すのはまあ常識ある人が見ればわかるんだけど、白馬に黒い縞をペンキで塗ったのを指してシマウマだと言われれば○国人くらいはだませるかもしれない。だが昨今のニセ科学(とそれにまつわる商売)の厄介な手法の一つはカメラで写せる範囲の外にあるものをさもカメラの範囲外にあるように見せかけることである。たとえばある家の庭が写っていて「この茂みに飼い犬がいるんです」と言ったときそれを信じるか否か。家の住人が実はファインダーの外に犬がいることを知っていても住人がいないところで住人を騙る誰かが「この茂みに飼い犬がいるんです」と言ってしまえば全くの第三者はかなりの確率でだまされてしまう。だからこそニセ科学を批判する人たちは「裏を取る」行為を推奨するのだ。
カメラに写らない部分でも直に見たものをある程度(あくまである程度)正確に絵でかくことはもちろん出来る。だがそれを疑い実際に写真として写した上で検証してきたのが科学の歴史であることは忘れてはいけないと思う。